神のかたち ツェレム、エイコーン、イコン、アイコン。

 以前、ある法人のお手伝いをすることになったと書きましたが、毎月スタッフ向けの研修の時間を頂戴して、法人の活動の中で掲げる「キリスト教の精神に基づく保育」の中身を一緒に考える機会を持っています。

  「キリスト教の精神に基づく保育」 という表現をもう少し補足すれば「聖書が教える人間理解や人生の目的、また世界観を土台にして営まれる保育」と言えると考えています。

 実際に子どもたちと直接接するスタッフと一緒に考えてみたいと思っていることは「神のかたち」という事なのですが、日本語の聖書では、「神のかたち」と、あえて「ひらがな」で書かれています。
 それは「形」ではないという意味が含まれている訳で、新改訳聖書の欄外ではあえて「像」という漢字が示されています。

 英訳の聖書では「image」と訳されていて「form」のように「形」ではなく「像」という意味が訳語の選択によって示されている訳です。
 しかし…日本語で表現されている、この「像」という表現も、個人的には何となくピーンとこないような気がします。(どうしても日本語で「像」と言われると、肖像とか銅像とかの像を思い浮かべてしまうのは自分だけでしょうか?)

 もちろん「神のかたち」が何を指し、何を意味しているのかは簡単なことではありません。キリスト教の歴史の中でも様々な説明や理解がなされてきたことを踏まえつつ、自分の立ち位置を定めて行くわけですが、今回考えていることは、ヘブル語の「ツェレム」という言葉をギリシャ語の聖書では「エイコーン」という訳語を当てたことを説明し、大まかに様々な立場を概観しながら、その上で現在の生活の中で普通に使っているアイコン(icon)や特に東方教会のイコンに触れつつ考えてみようかと思っているところです。

 私たちの生活の中で、「像」という言葉で表現するよりも「アイコン」や「イコン」という言葉の方が理解しやすい内容もあるように思ったのですが…どうでしょうか。

 アイコンはともかくイコンに関しては、ごくごく普通のプロテスタントの信仰を持っているクリスチャンにとっては馴染みがない、あるいは理解しがたい内容なのかもしれませんが、「かたち」の意味を理解する足がかりとして引用してみようと思っています。

 同じ西方教会の流れになるカトリック教会の歴史からも、東方教会の信仰理解からも学べるたくさんのことがあることを大切にしたいと思うのは、自分の一つのスタンスでもあるのですが…。

 追記:ラテン語表現では、イマゴ・ディ(imago Dei)ですから、英語のイメージ(image)につながってきます。ギリシャ語ではエイコーン(εἰκών)と書いていますが、現代のギリシャ語では、これをイコーンと発音するらしいです。

小さな集いで使える聖餐式のカップ

 6月の聖餐式の投稿で、少人数の集まりのための聖餐式のカップやトレイのことを書きましたが、毎月の聖餐式の投稿で画像を付けているように、少し小さめのガラス製のカップを使ってきました。

 数か月前に、もっと小さなグラスを見つることが出来ました。サイズ(高さ)自体は通常教会の聖餐式で使われるグラスよりは大きいのですが、注ぐことが出来る容量は15mlと量的にはピッタリです。

 12個のグラスと台がセットになっているものですが、以前も書いたように今は数的に十分すぎる個数ですが、将来的に人数が増えたらもうワンセット追加することで24人まで対応できますし、2セットの追加なら36人まで対応できます。

 分餐の際にもセットの方が(一つで24個とか36個よりも)扱いやすいし、時間が短くなります。

 もっとも今は12個でも多いので、6個だけ使って残りはケースにしまっています。
決して大きくな集まりの為に、こういう小さな聖餐式セットがあってもよいと思うのですが….。

 ちなみにこれまで使っていたグラスもショットグラスで、もともとはお酒をストレートで飲むために使われる少量を注ぐためのグラスです。

 思い返してみれば、こうした一つ一つのカップを分餐する方法ではなく、一つのカップを使って一つのカップから会衆が飲む方法の聖餐式も経験したことがあることを思い出しました。

 ある教会では一つのカップでしたが、スプーンで葡萄酒をいただきました。またある教会では一つのカップから回し飲み(というと表現が悪いですね。)、司祭が器を口元に差し出して下さり、そこから飲んだ際に、司祭が口を付けた部分を拭って、ふき取ってくださっていました。

 そういう方法ならば、小さな集いでも一つのカップで分餐出来るわけでカップの大きさを気にすることはあまりないということになるのでしょう。

 集まりが大きくなれば普通にキリスト教書店で売られている聖餐式セットを選択すればよいだけの話なのでしょが、開拓当初の教会などで、小さな小さな集いで使える聖餐式セットがどうしてないんだろうかと思わなくもないのですが。

9月の聖餐式

9月の聖餐式を執り行いました。

相変わらず、忙しい日々を過ごしている中で、立ち止まる機会を持てることを感謝しています。
皆さんはどんな日々をお過ごしでしょうか。

主の恵みが日々溢れますように!

8月の聖餐式

 8月の聖餐式は第2週になりました。

 正直に告白しますが、あまりにも忙しくて(言い訳になりませんが)聖餐式の準備をしそびれてしまったのです。忙しいとは「心」を「亡ぼす」と書くと言われますが、本当に忙殺されているように感じてしまいました。予定を失念したりということが最近度々あります。

 静まるという事を忘れてはなりませんね。

 

7月の聖餐式

 7月の聖餐式の準備をしました。今日もパンとカップは6個用意しました。
今日は月の第一主日にあたるので聖餐式を執り行います。先月から今日に至るまでにカップは12個追加で購入しました。…とはいえ、現時点では使う予定はまだないのですが。今の物よりも少し小さいカップです。

 それはそれとして、私たちの日々の歩みは、この日本という国の中で「今を生きている」わけですが、同時に私た一人ひとりは神の子として、神の国の民として日々生かされ、そして歩んでいることをもう一度心に刻み付けたいと思うのです。

 私たちは神と共に歩む者でありながら、いともたやすく、この世界の価値観に取り囲まれ、自己主張を繰り返し、自分の思いや自分の立場を「自由」の名のもとに主張をし始めることが無い訳ではありません。
 自分が思うとおりに生きる自由、自分がしたいようにする自由、それをあたりまえのことのように思ことが自然な世界の影響を知らず知らずのうちに受けていることがあります。

 しかし、神の国の自由は、それとは違う性質の自由だと思のです。
自由を自分のために用いるのではなく、共に生きるために、他者の益のために用いることを選べる自由なのではないでしょうか。
 今日の聖餐式が、イエス・キリストの十字架の意味を再確認する時となり、自分の生き方が神の国の生き方になることを願っています。

 

更新が滞ってしまいました。

 少し予定外でしたが4月から、ある法人の裏方というか事務方をすることになったのですが、手を入れる所がかなり広範囲にわたり、ほとんどフルタイムの仕事のような数か月になってしまいました。

 それを理由にしてはいけないのですが、すっかり更新が滞ってしまいました。
6月に入り、少し落ち着き始めたので改めて進み方を調整しなければならないと感じています。それでも、時速5キロの神の御手の中で、急がず慌てず進ん行きたいと思っています。

 ちなみに「時速5キロの神」という表現は、小山晃佑先生のエッセイ”Three Mile an Hour God“の邦訳タイトルから取っています。

6月の聖餐式

6月の聖餐式を行いました。

6月6日が第一主日でしたので、聖餐式を執り行いました。
今回のパンは大きさも形もちょっとずつ違って個性的でした。私たち一人一人がみんな違ってるように…。

小さな集まりのための聖餐式のセットがあってもいいのにと思うのですが。
4月は友人がプレゼントしてくださっていたポータブルの聖餐式のセットを使っていました。病床などでの聖餐のための小さなセットです。

10人とか15人とか、本当に小さな集まりで使うことができる聖餐式のトレイとカップのセットは海外ではキリスト教用品のカタログで見つけることができるのですが日本国内では….。
最初から35人分(位のサイズ)のグラス受けを使うしかないのかもしれません。

最近は24個入りのポーションタイプも販売されていますので、そういう形もありなのかもしれませんが。

とりあえず現状では、これで十分なのですが15人分くらいの小さなセットがあったら、人数が増えてきたら15人分をもうワンセットプラスすることで30人まで対応できることになるので、とても助かると思うのですが。余裕があれば自分で作ることも考えるかもしれませんし、海外から輸入という方法もない訳ではありません。

それでもコストのことや時間のことを考えると、今はこれで全く支障は(通常よりもブドウ液が一人ひとりに多くサーブされて「多い…」と言われることを除けば…)ないのですが。

使徒信条と主の祈り

 葉山グレース・クリスチャン・フェローシップは、プロテスタントのキリスト教の信仰を持つ単立のグループです。そのため、どのような信仰基準を持つグループなのかを明確にすることが大切だと考えています。

 できるだけ早い時期に「私たちが信じていること」を明文化したいと考えています。現時点では、「使徒信条」を信仰の告白として掲げたいと思います。これまでは文語文の「主の祈り」と「使徒信条」に親しんできましたが、今回はあえて両方とも口語文を引用したいと思います。

■使徒信条

わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして、全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者をさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン

■主の祈り

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン