今日は、第一主日にあたり、聖餐式を執り行うために準備をしました。
今日は、第一主日にあたり、聖餐式を執り行うために準備をしました。
第一主日にあたり、聖餐式を執り行いました。
今日は1月の第一主日に当たり、聖餐式を執り行いました。(今日は準備した後に画像を撮り忘れてしまいました。)
年末に、”Facing the Giants“をみました。2006年のアメリカで製作された映画ですが、日本では映画館では上映されることなくビデオスルーとなった作品です。
問題が山積し、解決の目途さえ立たないような出来事を目の前にしてどう進んでゆくのか?
何度も繰り返し見たDVDでしたが、もう一度目を天に向けさせられ主に期待する心を導かれた時でした。
主と共に歩む一年でありたいと願っています。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
ルカの福音書2章14節
(新改訳2017)
クリスマスに、「平和」が皆さんの上に、間に、心のうちにありますように。
1913年3月29日の「女子英学塾」での卒業式の式辞の一部を耳にしました。
One great beacon light is Truth. It will shine in every one of our souls, if only we do not refuse to see. It points out to us our own shallow attainments, our petty meannesses, our selfishness, vanity or jealousy; and reveals to us the good in others. Thus we may escape the rocks of pride and self-love.
Follow also the guiding lights of Love and Devotion. In women, these are called instincts, but yet how narrow often is our love, how fickle and shallow, our devotion. Learn to love broadly, deeply and devotedly, and your lives can not fail. With nobler desires, greater earnestness and wider sympathy not limited to just a few, but taking in the many even beyond the home, the weakest of us may attain success.
一つの大きな道標となる光が「真理」です。私たちが見ることを拒みさえしなければ、それは私たちの魂の中で輝いています。この光は、私たちの浅はかな達成感、些細な卑しさ、利己主義、虚栄心、嫉妬などを指摘し、他人の良いところを明らかにしてくれます。このようにして、私たちはプライドと自己愛の岩から逃れることができるのです。
また、「愛」と「献身」という導きの光にも従ってください。女性の場合、これらは本能と呼ばれますが、私たちの愛はどれほど狭く、献身はどれほど気まぐれで浅いものでしょうか。広く、深く、献身的に愛することを学べば、人生に失敗はないのです。より崇高な願望と、より大きな熱意と、より広い共感をもって、一部の人だけでなく、家庭を超えた多くの人を巻き込むことで、最も弱い人間でも成功を収めることができるのです。
“beacon”をここでは「道標」(みちしるべ)と訳してみましたが、「灯台」と訳されるべきなのかもしれません。私たちの人生の中で闇を照らす光としての役割を果たしてくれる『真理』。

12月の聖餐式の準備をしました。
アリスター・E・マクグラスという英国の神学者は、その著書『十字架の謎』という本の中で以下のように述べています。
あまりにもしばしば、十字架は、キリスト教生活を始めさせるためには重要でも、それ以降は何も信仰生活に影響を及ぼさないものであるかのように扱われます。けれども、十字架は、キリスト教生活の開始点になるだけでなく、キリスト教生活の性質や目的、そして、神がその被造界や私たちの人生に臨在し働くやり方についての私たちの理解を形作るものでもあります。キリスト教徒になるということは、イエス・キリストの十字架の下で生き、その光のもとで神や世界や信仰生活を見ることです。(p249)
『十字架の謎―キリスト教の核心』 アリスター・E. マクグラス (著), 本多 峰子 (翻訳), 教文館, 2003年
マクグラス先生は、十字架は私たちがイエス・キリストを救い主と信じ、この世界で生きて行く実際的な生き方を形作り、その目的について大きな影響を及ぼすものであると告げています。そして、目に見えない神が、私たちの人生やこの世界の中で働かれる、その方法を指し示すものであもることを告げているでしょう。
聖餐のたびに十字架の下で生きることを再確認することが出来なければ、聖餐も形だけになってしまいます。私たちの今、この場所でのあり方や進み方に方向性を与え、修正してくれることを忘れてはならないと思うのです。
Wikipedia(ウィキペディア)の「イコン」を見てみると、詳しく書かれていますがプロテスタントのキリスト教会から見ると(普通は)なかなか理解しがたい内容のように思います。(個人的主観です。スミマセン)
大きなところでは、以下の引用でも指摘されている「それって偶像礼拝じゃないの?」という疑問でもあり、言ってみれば、やはり意味や内容や役割や機能や….イコンについて知らないわからないという現実ではないでしょうか。
最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。キリスト教では(ユダヤ教やイスラームも同様であるが)偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒(出エジプト記 20:4 – 6[27]、申命記 5:8 – 10)である[28]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3#cite_note-osakatop2-13
プロテスタントの実践では、聖霊の助けにより、主イエスの御名によって、父なる神に直接祈るのであって、もしも他に何かあるとすれば、書かれた神のことばとしての聖書(みことば)、行為として私たちに語り掛けるサクラメント(洗礼であったり聖餐…)が、目に見えるものとして神に心を向けることを助け導く役割をすると考えることに異論はないのではないでしょうか。(「さんび」という音楽も思い浮かんだのですが、音楽自体は直接目に見えるものではないですね。)
それゆえに、形として認識されうる何かはできる限り除外されている文化の中にあるとやっぱり理解できないことなのだと思います。そういってしまうと身も蓋も無いことになってしまいますが。
東方教会の中では、イコンを「イコンとは別の世界への窓口」(パーヴェル・フロレンスキイ)と表現することも耳にしていました。それでもやはりイメージできない自分がいました。
今回、改めてイコンについて資料に触れたり、思いめぐらしたりする中で、Wikipediaの中に次のように書かれているのを見つけました。
正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである[12]。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある[13]。(同上)
なかなか面白い比喩だと思います。
段々と自分の中で、アイコンのイメージが広がって行きました。PCを使っている人はおなじみのアイコンです。アイコン自体は本体ではありませんが、アイコンをクリックすると本体に(例えばファイルであったり、プログラムであったり)アクセスすることが出来るアレです。
実際に自分自身がイコンを通して、神への祈りや礼拝に導かれる実践についていえば、未だに皆目見当がつきません。経験していないが故です。しかし、そのイメージはだいぶクリアーになってきました。
私たちが神のアイコン(かたち)として造られたということも、同じ延長線上で思いめぐらしているのです。ただ、私たちは罪のゆえにアイコンとしての機能を損なっていることも事実です。生まれながらの私たち人間が本体である神につながることも、神を(自分以外の他者に)真実に指し示すことも出来ないリンク状態です。
目に見えない神のかたちであるイエス・キリストを通して、私たちはアイコンの役割、機能を取り戻すのです。私たち自身が神につながるためのアイコンを有し、同時に私たちがこの世界に対して開かれたアイコンとして神を指し示す役割を取り戻すのです。
神のかたちは、人間が創造された際に神の息を吹き込まれた存在であることと無関係ではないように思います。また、神がこの世界を管理する役割を人に与えられたこととも無関係ではないように思います。私たちは、神のアイコンとして生きることが本当に必要なのです。

本日、11月の聖餐式を執り行います。
今日のぶどう液は、ストレートジュースで、カップに注ぐ際にも粘度を感じさせるものでした。(聖餐式用にとお土産に頂いたものです。)
先週の日曜日に、ある方との会話の中で、もう2年近く聖餐式に預かっていないという話がありました。コロナの影響で、インターネット配信による礼拝の出席であったり、実際に集う機会があっても感染防止対策のため現在は中止という事でした。
礼拝ということもそうですが、礼拝とは何なのか、教会とは何なのか、その本質的な部分が問い直されている期間のように思います。
立ち止まって、座って、ゆっくりと思いめぐらしたり、考えてみたり、そして、互いに分かち合ってみるという機会なのでしょう。