新しい年を迎えて

今日は1月の第一主日に当たり、聖餐式を執り行いました。(今日は準備した後に画像を撮り忘れてしまいました。)

年末に、”Facing the Giants“をみました。2006年のアメリカで製作された映画ですが、日本では映画館では上映されることなくビデオスルーとなった作品です。

問題が山積し、解決の目途さえ立たないような出来事を目の前にしてどう進んでゆくのか?
何度も繰り返し見たDVDでしたが、もう一度目を天に向けさせられ主に期待する心を導かれた時でした。

主と共に歩む一年でありたいと願っています。

クリスマス!

「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

ルカの福音書2章14節
(新改訳2017)

クリスマスに、「平和」が皆さんの上に、間に、心のうちにありますように。

クリスマスのメッセージ

クリスマスの時期になると思い起す体験があります。それは、とても印象的で決して忘れることができない出来事でした。クリスマスにふさわしくないような出来事でありながら、クリスマスのメッセージを理解することを助けてくれるような出来事でした。

数年前のことですが、主として医療用医薬品卸売業を営む、ある会社の納品代行の仕事をしていたました。年末年始には病院への医薬品の配送がストップするため、クリスマス前後には、大きな病院では、約一週間分をまとめて納品することになります。

その日は、横浜市の二俣川にある県立がんセンターへの一括納品をすることになっていました。営業の担当者と待ち合わせをして、納品に伺うことになっていましたので、少し前に近くのコンビニに車を止めてトイレに行きました。

用を足して、水を流すためにレバーに手を伸ばしたところ、シャツの胸ポケットに入れていた携帯電話が便器にポトンと落ちてしまいました。 あっ!

予想外の水没事故にも驚きましたが、勢いよく流れる水流に、押し流されてゆく携帯電話の姿が消え去ってゆくことに、さらに驚きました。

ないのです。落としたはずの携帯が。

自分個人の携帯ならば、もうあきらめたでしょう。しかし、その時落とした携帯電話は、会社から支給されていた会社名義の電話でした。何が何でも持ち帰らなければなりません。

意を決して、手を入れ、流れていった携帯を手探りで探し当てようとしました。

絶対、手を入れたくないようなところに、それでも、ぐっと手を差し込み、探します。

残念ながら、手が届く範囲には、痕跡はありません。手が届かないパイプの奥のほうへと流されてしまったようです。

失意のうちに、トイレを出ると、レジに立っている店員さんに事情を説明して、大きな精神的ダメージを抱えたまま、納品へと赴きました。

翌日、コンビニの店長さんから電話があり、失われた携帯電話は、専門の業者の手によって真っ暗で希望の一つもないような状況から助け出され、回収された連絡がありました。

自分の車で二俣川まで向かい、そして、回収のためにかかった費用を支払い、回収された携帯電話を受け取ることができました。

この出来事をお話したのには訳があります。

第一に、あなたは神のものです。自分の携帯電話だったらあきらめと申し上げました。しかし、それは会社名義の電話だったと。あなたもまた神さまのものです。自分の人生を自分のものと考えているかもしれません。自分で自分をこの世界に存在させている人は誰もいません。神があなたを造り、神があなたをこの世界に存在させています。あなたも、私も神のものです。

第二に、神から離れた人間の悲しい状況です。ポケットから落ちて流れていった携帯電話は、失われた存在となりました。別の電話で電話しても「おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波が届かない場所にあります。」と通話ができませんでした。つながらない、失われた存在。神を認めない、神から離れた生き方こそ、闇の中を、死の陰の中を生きる姿です。

第三に、人間にはその状況を変えることはできません。携帯が自分で、そこから這い出して来ることはあり得ませんでした。また、私が手を入れても取り出せるような状況ではありませんでした。私のために、そこから失われた携帯を見つけ出し、取り戻す存在を必要としました。人間が自分で神のもとへ帰ることはできません。私たちもまた、私たちを救い出す存在を必要としています。

第四に、神がその救いを与えました。決して手を入れることなど考えたくもないところに手を入れて探りました。神は罪から目を背けられます。しかし、その罪の問題から人間を救い出すために、罪のあふれる世界に手を差し伸べます。もちろん、私は手を入れても携帯を見出すことはできませんでした。しかし、そこに専門家が専門のツールを用いて、遠く深くまで流されていた携帯を引き出してくれました。人間にはできないことを神ご自身が、成し遂げてくださったのです。神は失われた存在を愛し、熱心に求められます。離れたままにしておくことも、あきらめることもできないのです。

第五に私たちは神の手に再び握りしめられ生かされます。携帯は帰ってきました。取り戻されました。そして、洗って、消毒して、乾かして、電源を入れると、問題なく使うことができました。しかし、そこには犠牲が伴いしました。業者が作業した代金が請求されました。正直に言って手痛い出費でした。

私たちが神のもとに取り戻されるためにも代価が支払われました。それは人間に支払いを求めることなく神ご自身が、イエスご自身が支払われました。私たちには支払いきれない代価をイエスがご自身のいのちで支払われた。それがイエスの十字架です。神から離れた人間をもう一度神の手に取り戻すために支払われた罪の代価こそ、イエス・キリストの十字架の死であり、イエスご自身のいのちでした。こうして私たちは無償で神のもとに帰ることができるようになったのです。

クリスマスのメッセージは、神から離れて闇の中を歩む人間に、救いと解放をもたらすために来られた神の御子の到来を告げ知らせます。

イエスが来られたのは、すべての人に救いをもたらす神の恵みを、私たちが自分のものとすることができるようにするためでした。あなたも救いを受け取ることができます。闇から光に変えられることができます。これがクリスマスのメッセージです。

I have an experience to recall during the Christmas season.  It was a very striking event that I could never forget. It was the kind of event that would later help me to understand Christmas messages, even though it was not appropriate for Christmas.

A few years ago, I was delivering supplies for a wholesale pharmaceutical company.  As the delivery of medicine to the hospital is halted during New Year holidays, about one week’s worth of supplies  are usually delivered to big hospitals around Christmas.

On this particular day, I was scheduled to make a delivery to the prefectural cancer center in Yokohama City.  I was supposed to meet with a sales representative first, and then make the delivery together. Before that, I stopped by a convenience store near the hospital, and went to the restroom.

After relieving myself, I reached out to the lever to flush the toilet, and my mobile phone fell out of my shirt pocket and into the toilet bowl.  Oh no!

I was surprised that my phone dropped, but I was even more surprised that it disappeared into the vigorously flowing water current.

The mobile phone I had dropped was nowhere to be seen.

I would have already given up if it had been my personal phone.  However, it was a company phone and I really had to retrieve it.

I was determined, so I put my hand into the toilet bowl and tried to find the phone.

I put my hand even deeper to search, which most people would refuse to do.

Unfortunately, there was no object in the reach of my hand.  It seemed to have been flushed to the back of the pipe where my hand couldn’t reach.

With disappointment, I left the restroom and explained what had happened to a shop clerk.  I left the convenience store and went to the delivery incredibly concerned.

The next day, the convenience store manager called me.  He said that the phone was saved! It was pulled from the hopeless situation where it sat, from the pitch dark,, and retrieved by a specialist.

I headed out to the convenience store in my own car, paid for the cost of the specialist  and received the retrieved phone.

You may wonder why I am sharing this particular story.  Let me assure you, there’s a good reason.

First of all, you belong to God.  I told you that I would have given up if it had been my private phone.  But it was a company-owned phone. You belong to God. You may think you own your life.  No one has made himself present in this world by himself. God created you, and God has made you present in this world.  You and I belong to God.

Secondly, it is a sad situation of a person departed from God.  The mobile phone that dropped out of my pocket and was flushed away became a lost entity.  Even if I called on a different phone, I could not reach it and got an automated message, saying, “The number you have dialed is not available.”  It is a disconnected, lost entity. The way of life that does not admit God and lives away from Him is the way of living in the shadow of death —  in the deep darkness.

Third, humans cannot change that situation.  It was impossible for my mobile phone to crawl from there on its own. Also, I could not retrieve it, even by putting my hand in there. I needed someone who could find the lost phone and retrieve it from there for me. It is impossible for humans to return to God by themselves. We also need someone to rescue us.

Fourth, God gave His salvation.  I put my hand in a place I never, ever thought I would consider, putting it and searched. God turns his eyes away from sin. But He reached his hands out to the world full of sin to rescue humans from the problems of our sins. Like I said before, I could not find that phone, even if I put my hand in there.  However, an expert used special tools to bring out the phone from far and deep in the pipe. God himself has done what humans cannot do. God loves the lost beings and is eagerly seeking. He neither leaves nor gives up.

Fifth, God reaches down to us in our darkness and pulls us back to life again in Him through the work of His hands only.  The phone came back. It was retrieved. After washing, disinfecting, drying, and turning on the power, I was able to use it without problem.  But there was sacrifice involved. The contractor fee was charged. To be honest, it was a painful expense.

A price was paid for us to get back to God.  God himself, Jesus himself, paid it; He did not ask us to pay it.  With His life, Jesus paid the price we could not pay with our own lives.  . That is Jesus’s cross. Jesus Christ’s death on the cross is the price of sin paid to bring back people who were away from God to His hands once again.  In this way, we were able to return to God for free.

The Christmas message announces the arrival of the Son of God who came to bring salvation and liberation to the man who walks in the deep darkness, away from God.

Jesus came so that we could make ourselves the grace of God that brings salvation to all people.  You can receive salvation, too. You can change from darkness to light. This is my Christmas message.

「ない・ない・ない」と「ある・ある・ある」(ルカの福音書2章1-20節)

さぁ今日も聖書のお話をしたいと思います。

今日のお話のタイトルは、「ない・ない・ない」と「ある・ある・ある」にしました。
お話のタイトルそのままで、今日の聖書のお話の中で、ないものとあるものを捜してみたい思います。

何が「ある・ある・ある」でしょう。何が「ない・ない・ない」でしょう?

先生が見つけた「ない・ない・ない」は、ヨセフさんとマリヤさんが泊まる場所がなかったことです。

聖書には「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(2:7)と書かれています。

でも、宿屋さんにいる場所がなかっただけではなくて、そのことは、生まれたばかりの赤ちゃんが眠れるベッドもなかったことにもつながっています。この生まれたばかりの赤ちゃんって誰でしょうね?

そうイエスさまです。それは、イエスさまをお迎えできる場所も、なかったっていうことですね。

そして、先生が見つけた「ある・ある・ある」は、たくさんあります。

マリヤさんにはヨセフさんが、ヨセフさんにはマリヤさんがいました。ふたりとも独りぼっちじゃなかったことに気がつきます。嬉しいですね。一緒にいてくれる人がいました。

赤ちゃんを無事産める場所がありました。イエスさまが無事に元気に生まれることができました。もちろん、病院ではなかったし、宿屋さんのお部屋でもありませんでした。家畜小屋っていうとっても特別な場所でしたが、それでも場所がありました。

赤ちゃんをくるむ布もありました。ベッドの飼葉おけもありました。

想像してみてください。この夜、マリヤさんとヨセフさんは、ガッカリして、悲しくて、暗い顔をしていたと思いますが?

先生は、嬉しくて、嬉しくて、仕方がない、ふたりを思い浮かべます。だってイエスさまが無事生まれてくださった。マリヤさんとヨセフさんが、楽しみに待っていたイエスさまが目に前にいたのですから。

羊飼いさん達も、ないものがたくさんありました。でも、イエスさまが地上に来てくださった夜に、御使いさんが教えてくれた言葉を、信じて、一生懸命走りまわって、イエスさまが眠っている飼い葉おけを見つけ出せました。

どんなに嬉しかったか、想像できるでしょうか?羊飼いさんたちの心に神さまを讃美する気持ちがあふれていたことが記されています。

神さまって素晴らしいね、神さまってホントにすごいね。

そういいながら帰る、羊飼いさんたちは、寂しくて、悲しくて、暗い顔をしていたでしょうか?

して・・・いま・・・せん!とっても嬉しくて、ニコニコしたていた羊飼いさんを先生は思い浮かべます。

先生が今日、見つけた一番の「ある・ある・ある」は、天の軍勢さんたちが神さまを賛美して言った言葉の中に隠されています。

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(2:14)

神さまに栄光があります。そして、御心にかなう人々に平和があります。

栄光も平和も、ちょっと難しい言葉ですね。

本当は、栄光っていう言葉が一番ふさわしいのは、神さまだけです。
神さまが一番、神さまってスゴイ、神さまって完璧、強い、素晴らしいっていうことを、僕たち私たちが認めることで、神さまは栄光を受けられるのです。
認めても、認めなくても、神さまは神さまだから絶対変わらないけど、神さまのすごさ素晴らしさを認めることが栄光につながるということを憶えておいてくださいね。

そして、平和っていう言葉は、平安と訳されることもあります。この言葉も、神さまを神さまと認めることとがなければわからないことです。

天の軍勢さんたちは、御心にかなう人々と言っています。今日のお話の中で、御心にかなう人はいたと思いますか?

そうです。いますよね。それはマリヤさんやヨセフさん、羊飼いさん達です。先生はマリヤさんやヨセフさん、そして羊飼いさんたちが、悲しそうな顔をしていたり、ガッカリしている顔をしたり、残念がっていないように思えます。

マリヤさんにもヨセフさんにも、羊飼いさん達にも、「ない。ない。ない」と足りないものや持っていないもの、ないものがありました。

でも、それ以上に「ある・ある・ある」がいっぱいあって、喜んでいる姿があります。それはイエスさまがいてくれるからです。イエスさまが来てくれたからです。

イエスさまが一緒にいてくれると、心の中に「平和」が「ある・ある・ある」になるのです。もちろんヨセフさんやマリヤさん、羊飼いさん達だけでなく、僕たち私たちも同じように生きることができます。

だから、私たちも、神さまにありがとう、神さまってスゴイね、素晴らしいねっていうことができるのです。

クリスマスの感謝は、イエスさまが一緒にいてくれる人に神さまが神さまにしか与えることができない平和を心にくださるからできるのです。

ないものではなくて、あるものを数え、喜べる心をイエスさまは私たちにくださるのです。

一緒にお祈りしましょう。

暗闇の中でも、私たちの進むべき道を指し示し、足元を照らす光となるもの。

1913年3月29日の「女子英学塾」での卒業式の式辞の一部を耳にしました。

One great beacon light is Truth. It will shine in every one of our souls, if only we do not refuse to see. It points out to us our own shallow attainments, our petty meannesses, our selfishness, vanity or jealousy; and reveals to us the good in others. Thus we may escape the rocks of pride and self-love.

Follow also the guiding lights of Love and Devotion. In women, these are called instincts, but yet how narrow often is our love, how fickle and shallow, our devotion. Learn to love broadly, deeply and devotedly, and your lives can not fail. With nobler desires, greater earnestness and wider sympathy not limited to just a few, but taking in the many even beyond the home, the weakest of us may attain success.

一つの大きな道標となる光が「真理」です。私たちが見ることを拒みさえしなければ、それは私たちの魂の中で輝いています。この光は、私たちの浅はかな達成感、些細な卑しさ、利己主義、虚栄心、嫉妬などを指摘し、他人の良いところを明らかにしてくれます。このようにして、私たちはプライドと自己愛の岩から逃れることができるのです。

また、「愛」と「献身」という導きの光にも従ってください。女性の場合、これらは本能と呼ばれますが、私たちの愛はどれほど狭く、献身はどれほど気まぐれで浅いものでしょうか。広く、深く、献身的に愛することを学べば、人生に失敗はないのです。より崇高な願望と、より大きな熱意と、より広い共感をもって、一部の人だけでなく、家庭を超えた多くの人を巻き込むことで、最も弱い人間でも成功を収めることができるのです。

“beacon”をここでは「道標」(みちしるべ)と訳してみましたが、「灯台」と訳されるべきなのかもしれません。私たちの人生の中で闇を照らす光としての役割を果たしてくれる『真理』。

12月の聖餐式

12月の聖餐式の準備をしました。

アリスター・E・マクグラスという英国の神学者は、その著書『十字架の謎』という本の中で以下のように述べています。

あまりにもしばしば、十字架は、キリスト教生活を始めさせるためには重要でも、それ以降は何も信仰生活に影響を及ぼさないものであるかのように扱われます。けれども、十字架は、キリスト教生活の開始点になるだけでなく、キリスト教生活の性質や目的、そして、神がその被造界や私たちの人生に臨在し働くやり方についての私たちの理解を形作るものでもあります。キリスト教徒になるということは、イエス・キリストの十字架の下で生き、その光のもとで神や世界や信仰生活を見ることです。(p249)

『十字架の謎―キリスト教の核心』 アリスター・E. マクグラス (著), 本多 峰子 (翻訳), 教文館, 2003年

マクグラス先生は、十字架は私たちがイエス・キリストを救い主と信じ、この世界で生きて行く実際的な生き方を形作り、その目的について大きな影響を及ぼすものであると告げています。そして、目に見えない神が、私たちの人生やこの世界の中で働かれる、その方法を指し示すものであもることを告げているでしょう。

聖餐のたびに十字架の下で生きることを再確認することが出来なければ、聖餐も形だけになってしまいます。私たちの今、この場所でのあり方や進み方に方向性を与え、修正してくれることを忘れてはならないと思うのです。

Icon

 Wikipedia(ウィキペディア)の「イコン」を見てみると、詳しく書かれていますがプロテスタントのキリスト教会から見ると(普通は)なかなか理解しがたい内容のように思います。(個人的主観です。スミマセン)


 大きなところでは、以下の引用でも指摘されている「それって偶像礼拝じゃないの?」という疑問でもあり、言ってみれば、やはり意味や内容や役割や機能や….イコンについて知らないわからないという現実ではないでしょうか。

最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。キリスト教では(ユダヤ教イスラームも同様であるが)偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒(出エジプト記 20:4 – 6[27]申命記 5:8 – 10)である[28]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3#cite_note-osakatop2-13

 プロテスタントの実践では、聖霊の助けにより、主イエスの御名によって、父なる神に直接祈るのであって、もしも他に何かあるとすれば、書かれた神のことばとしての聖書(みことば)、行為として私たちに語り掛けるサクラメント(洗礼であったり聖餐…)が、目に見えるものとして神に心を向けることを助け導く役割をすると考えることに異論はないのではないでしょうか。(「さんび」という音楽も思い浮かんだのですが、音楽自体は直接目に見えるものではないですね。)

 それゆえに、形として認識されうる何かはできる限り除外されている文化の中にあるとやっぱり理解できないことなのだと思います。そういってしまうと身も蓋も無いことになってしまいますが。

 東方教会の中では、イコンを「イコンとは別の世界への窓口」(パーヴェル・フロレンスキイ)と表現することも耳にしていました。それでもやはりイメージできない自分がいました。
 今回、改めてイコンについて資料に触れたり、思いめぐらしたりする中で、Wikipediaの中に次のように書かれているのを見つけました。

正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである[12]。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある[13]。(同上)

 なかなか面白い比喩だと思います。
段々と自分の中で、アイコンのイメージが広がって行きました。PCを使っている人はおなじみのアイコンです。アイコン自体は本体ではありませんが、アイコンをクリックすると本体に(例えばファイルであったり、プログラムであったり)アクセスすることが出来るアレです。

 実際に自分自身がイコンを通して、神への祈りや礼拝に導かれる実践についていえば、未だに皆目見当がつきません。経験していないが故です。しかし、そのイメージはだいぶクリアーになってきました。

 私たちが神のアイコン(かたち)として造られたということも、同じ延長線上で思いめぐらしているのです。ただ、私たちは罪のゆえにアイコンとしての機能を損なっていることも事実です。生まれながらの私たち人間が本体である神につながることも、神を(自分以外の他者に)真実に指し示すことも出来ないリンク状態です。

 目に見えない神のかたちであるイエス・キリストを通して、私たちはアイコンの役割、機能を取り戻すのです。私たち自身が神につながるためのアイコンを有し、同時に私たちがこの世界に対して開かれたアイコンとして神を指し示す役割を取り戻すのです。

 神のかたちは、人間が創造された際に神の息を吹き込まれた存在であることと無関係ではないように思います。また、神がこの世界を管理する役割を人に与えられたこととも無関係ではないように思います。私たちは、神のアイコンとして生きることが本当に必要なのです。

11月の聖餐式

 本日、11月の聖餐式を執り行います。
今日のぶどう液は、ストレートジュースで、カップに注ぐ際にも粘度を感じさせるものでした。(聖餐式用にとお土産に頂いたものです。)

 先週の日曜日に、ある方との会話の中で、もう2年近く聖餐式に預かっていないという話がありました。コロナの影響で、インターネット配信による礼拝の出席であったり、実際に集う機会があっても感染防止対策のため現在は中止という事でした。

 礼拝ということもそうですが、礼拝とは何なのか、教会とは何なのか、その本質的な部分が問い直されている期間のように思います。

 立ち止まって、座って、ゆっくりと思いめぐらしたり、考えてみたり、そして、互いに分かち合ってみるという機会なのでしょう。