Lent2024

 今年は、今日2月14日からレントの期間にはいりました。イースターまでの日曜日を除く40日の期間をレントの呼びます。
 レントの期間は、イエス・キリストの十字架の苦難が私のためであったことを思い起こし、魂の断捨離…大掃除のチャンスとして過ごす期間です。教会暦の中では、大きく2回の悔い改めのシーズンがあります。ひとつはアドヴェント。もうひとつがレントです。

 私たちはこの世界で生活をする中で、たくさんの影響をまわりから受けています。意識していることもあれば、無意識に影響を受けていることもあるでしょう。人によって差はあるでしょうが、心の中にいろいろと詰め込んで、日々の忙しさの中で未整理のまま過ごしていることもあるように思います。

 アドヴェントの期間も、そしてレントの期間も意識的に自分の内面と向かい合い、私たちが今ここで生かされていることの意味、目的、進み方を再確認して、ズレている方向をアジャストし、不要なものは捨て去り、傷や汚れはきれいに掃除をして(いただき)、人生を整えることに意識的に取り組む期間(シーズン)として過ごすことが大切だと思います。

 アドヴェントが新しい年を迎える備えの期間とも重なるように、多くの場合、レントは新年度を迎える備えの時期とも重なります。特に4月から始まる新年度は、新しい学校や学年(クラス)、新しい職場、新しい生活の場など変化を迎えることが多いときになります。真剣に主の御前で自分の内面と向き合い、人生を整えることは大きな意味があるでしょう。

 御言葉を思いめぐらし、祈りをもって、聖霊なる神さまのお取り扱いに対して心を開き、傷もへこみも癒され、汚れもけがれも洗いきよめられ、心の宮に聖霊さまが満ちあふれることを求めましょう。

Blessing…

 母の元へ車を運転しながら向かう時、戻るとき…特に二つの曲が励ましとなっていました。

一つは、”The Blessing”という曲です。歌詞は…

[Verse]
The Lord bless you
And keep you
Make His face shine upon you
And be gracious to you
The Lord turn His
Face toward you
And give you peace
The Lord bless you
And keep you
Make His face shine upon you
And be gracious to you
The Lord turn His
Face toward you
And give you peace

[Chorus]
Amen, amen, amen
Amen, amen, amen

[Verse]
The Lord bless you
And keep you
Make His face shine upon you
And be gracious to you
The Lord turn His
Face toward you
And give you peace

[Chorus]
Amen, amen, amen
Amen, amen, amen
Amen, amen, amen
Amen, amen, amen

[Bridge 1]
May His favor be upon you
And a thousand generations
And your family and your children
And their children, and their children
May His favor be upon you
And a thousand generations
And your family and your children
And their children, and their children
You might also like
May His favor be upon you
And a thousand generations
And your family and your children
And their children, and their children
May His favor be upon you
And a thousand generations
And your family and your children
And their children, and their children

[Bridge 2]
May His presence go before you
And behind you, and beside you
All around you, and within you
He is with you, He is with you

[Bridge 3]
In the morning, in the evening
In your coming, and your going
In your weeping, and rejoicing
He is for you, He is for you

[Refrain]
He is for you, He is for you
He is for you, He is for you
He is for you, He is for you

 旧約聖書の民数記6章24-26節にある御言葉を祝祷の祈りの言葉として用いてきましたが、この讃美も、この聖書のみことばをベースにしています。

 もう一つは、King of my heartという曲です。

Verse 1
Let the King of my heart
Be the mountain where I run
The fountain I drink from
Oh He is my song
Let the King of my heart
Be the shadow where I hide
The ransom for my life
Oh He is my song

Chorus 1
You are good good oh
You are good good oh
You are good good oh
You are good good oh

Verse 2
Let the King of my heart
Be the wind inside my sails
The anchor in the waves
Oh He is my song
Let the King of my heart
Be the fire inside my veins
The echo of my days
Oh He is my song

(Bridge)
You’re never gonna let
Never gonna let me down
You’re never gonna let
Never gonna let me down
You’re never gonna let
Never gonna let me down
You’re never gonna let
Never gonna let me down

(Ending)
When the night is holding on to me
God is holding on
When the night is holding on to me
God is holding on

繰り返し繰り返し再生しては、音源に合わせて歌いながら通っていました。

母の葬儀

私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。
ヨブ記1章21節

                                      

 2022年12月24日に母の葬儀を執り行いました。

 前週の木曜日頃から体調を崩した母でした。8月に右肩の脱臼が原因で入院をし、転院を経て11月28日に退院後、自宅で療養していました。

 12月20日の午後に訪れた際には静かに呼吸して眠っていましたが、20時過ぎに家族が看取る中、静かに息を引き取りました。

 12月25日は母の86歳の誕生日で、入院中から一緒にお祝いをする約束をし、その日を楽しみにしていましたが約束は果たせませんでした。
棺には誕生日にはいつも家族と共に食べていた苺のショートケーキと約束のお寿司を一緒に入れました。

 2018年12月21日には父を見取り、24日に葬儀を執り行ったのですが、同じ12月24日が母の葬儀と日となりました。それだけでなく、21日と20日と、まるで後ろをついていくかのように息を引き取った母を思い、なんだか母らしいなぁ・・・と思いました。

 遺影に使うために母の写真を探しましたが、前に出ることなくいつも一歩後ろに写っているように感じました。

 いくつか候補を選んだ中から妹と相談して、孫の姿を目を細めて見つめている写真を最終的には選びました。父の写真を入れていたフレームも交換して、夫婦おそろいのフレームにして葬儀に持って行きました。

 母の葬儀に思ったことは、人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでゆくのですが、生きた証し(内村鑑三の『後世への最大遺物』を思っていました。)、あるいは、人生の中で何かを(形があるものであれ、形のないものであれ)残したり、託したりするという事でした。(もっと積極的には、この地上に残すということ以上に、天に宝を蓄える生き方もできるのですが・・・。)

 何も残さない人はきっと一人もいないと思います。母は私たちにたくさんのやさしさと思いやりと思い出を残してくれました。

 一緒に笑ったり、一緒に泣いたり、怒ったり怒られたり、時には喧嘩したこともあったでしょう。それらすべてが大切な宝物になって心の中に残っていることを思いました。

感謝しつつ

The LORD has made known us!

ルカによる福音書2章15節には「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。」(新共同訳)と記されています。(RSV:When the angels went away from them into heaven, the shepherds said to one another, “Let us go over to Bethlehem and see this thing that has happened, which the Lord has made known to us.”)

行こう!見よう!という羊飼いの思いが心に留まりました。

いろいろなリスクやそれぞれの都合はたくさんあるでしょう。でも…それでも主が告げ知らせてくださったのだから、それを見たいと動き出す心に心が留まりました。(新改訳聖書では、「見届けて来よう」と訳しだしています。)

羊飼いたちの経験は、単に見た、聞いたということで終らずに心にしっかりと刻み込まれたことを思います。新共同訳聖書でも新改訳聖書でも、「知らせてくださった」「出来事」と訳していますが、英語の訳でも[知らせてくださった]”the Lord has made known to us.”と訳しだされていますが、原文で使われている単語には、「知るようになる」”to come to know, to make known”の意味がある単語が用いられています。

ですから、見た、聞いたことが、心の中に留まって「知るようになったこと」があって、それを実際に見たい、もっと確かに知りたいという願いに変わっていったように思わされたのです。

日常の生活の中で、いろいろなことに心を捕らわれて、どうしても鈍くなっている感覚が否めません。日常の中では残念ながら鈍くなっていることにも気が付けないことがあります。そんなときに、みことばを通して心を動かしてる羊飼いたちの姿に思いを揺さぶられる…。

今日も、行こうよ。見て来ようよ。主の働かれるその現実をと心を動かしたいと思わされました。

石油ストーブのしん

 先週の金曜日は、気温が下がり慌てて暖房器具の用意をしました。
いくつある暖房器具のうちの一台は、昨シーズン、石油ストーブの芯が短くなってきていて、自動点火がしにくくなっていたので、交換用の芯を購入したのですが交換には至っていませんでした。

 まだ自分が小学生だったころ、家で使っていた石油ストーブの芯が短くなって火が小さくなってきたために、父が交換を試みたことを思い出していました。ストーブを分解し始めて、いざ古い芯を引き出そうとしましたが、結局上手くいかず「自分は壊すのは得意だが、直すのは…」と言っていたことが記憶の奥底にありました。

 今日は休日ということもあり、いよいよ重い腰を上げて取り組むことにしました。結果から言うと、古い芯を外す手順がやはりわかりずらく手間取りましたが、後はスムーズでした。

 父の作業との一番の違いは、交換のマニュアルが手元にあったことと、インターネットでの検索で動画も参考にできたことでした。あの時代に同じようなツールがあったら、きっと父にとっても直すことは簡単なことだったでしょう。

 ありふれた日常生活の一コマが、思い出になって心の中に残っています…。

 

暗闇の中でも、私たちの進むべき道を指し示し、足元を照らす光となるもの。

1913年3月29日の「女子英学塾」での卒業式の式辞の一部を耳にしました。

One great beacon light is Truth. It will shine in every one of our souls, if only we do not refuse to see. It points out to us our own shallow attainments, our petty meannesses, our selfishness, vanity or jealousy; and reveals to us the good in others. Thus we may escape the rocks of pride and self-love.

Follow also the guiding lights of Love and Devotion. In women, these are called instincts, but yet how narrow often is our love, how fickle and shallow, our devotion. Learn to love broadly, deeply and devotedly, and your lives can not fail. With nobler desires, greater earnestness and wider sympathy not limited to just a few, but taking in the many even beyond the home, the weakest of us may attain success.

一つの大きな道標となる光が「真理」です。私たちが見ることを拒みさえしなければ、それは私たちの魂の中で輝いています。この光は、私たちの浅はかな達成感、些細な卑しさ、利己主義、虚栄心、嫉妬などを指摘し、他人の良いところを明らかにしてくれます。このようにして、私たちはプライドと自己愛の岩から逃れることができるのです。

また、「愛」と「献身」という導きの光にも従ってください。女性の場合、これらは本能と呼ばれますが、私たちの愛はどれほど狭く、献身はどれほど気まぐれで浅いものでしょうか。広く、深く、献身的に愛することを学べば、人生に失敗はないのです。より崇高な願望と、より大きな熱意と、より広い共感をもって、一部の人だけでなく、家庭を超えた多くの人を巻き込むことで、最も弱い人間でも成功を収めることができるのです。

“beacon”をここでは「道標」(みちしるべ)と訳してみましたが、「灯台」と訳されるべきなのかもしれません。私たちの人生の中で闇を照らす光としての役割を果たしてくれる『真理』。

鹿のように

鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように神よ、
私の魂はあなたをあえぎ求める。
神に、生ける神に私の魂は渇く。 
詩編42編2-3節


 子どもたちと、夜に詩篇42篇を読みました。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(新改訳2017)

 何度となく讃美の歌詞としても味わってきた“みことば”ですが、それほどまでに切実に渇きを覚えて求めているだろうかと思わされました。

 諦めている訳でもなく、現状に満足している訳でもないけれども…渇いていない魂の現実にさえも心が向かうことなく、日常に流されているように思わされた夜でした。
 公に書き記すにはふさわしくない文書なのかもしれませんが、正直な気持ちなのです。

 自分が心底渇いているという意識もなく、それほどまでに主を求める心の不在を意識することもなく日々過ごしている自分の姿を見た気がします。

神のかたち

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

神は人を自分のかたちに創造された。 
神のかたちにこれを創造し 
男と女に創造された。
(聖書協会共同訳 創世記1章26-27節)

  神は人を「神のかたち」に造られたことをどう理解するかによって、私たちの生き方や方向性が大きく変わってくるように思う今日この頃です。

 男と女に創造されたことも、「神のかたち」との関連で考える時に、結婚ということも、夫婦の関係ということも新しい意味を持ってくるように感じ始めました。

 結婚式の折に、創世記2章18節に「また、神である主は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。』」と告げられていることについて、何度も何度も「助け手」というのは「向かい合う者」なのだと語ってきましたが、「助け手」として向かい合い生きることも、「神のかたち」として生きる側面のように思えてきました。

 言い換えると、神のかたちとして生きるためにこそ、助け合う関係があるとしたら、私たちの夫婦の関係はどこを目指すべきなのかをもう一度立ち止まって考えてみる必要があるのだろう….と。

 そんなことを思いめぐらしていると、以前、前田誠氏の「不在の神は“風”の中に」の中にあった文書を思い出しました。

 男はヘブル語で「イーシュ」。女はヘブル語で「イッシャー」です。
それぞれאִישׁとאִשָּׁהと書きます。それぞれがアレフとシンという同じ文字を持っている一方、男だけがヨッド(ローマ翻字で表現すると、「Y」)を、女だけがへー(同様に「H」)を持っています。

 この男のYと女のHが夫婦として一つになるときに、お互いが持っているYとHが一つになる。ばらばらにいる時には気が付かないYH(ヤハ)つまり「主」が現れてくるという事でした。(逆にYHが失われると、)אשしか残りません。それは「火」を意味するエーシュです。一体となった男と女がバラバラになると、そこには火しか残らないと。それは燃やし尽くしであり、神の裁きを指し示すものとなります。

 神のかたちをアイコンと考えるならば、結婚を通しても神のアイコンとなる生き方が求められているでしょうし、そのために助け合う、向かい合う存在になるプロセスを意識するようになるのではないでしょうか?

 

 

Icon

 Wikipedia(ウィキペディア)の「イコン」を見てみると、詳しく書かれていますがプロテスタントのキリスト教会から見ると(普通は)なかなか理解しがたい内容のように思います。(個人的主観です。スミマセン)


 大きなところでは、以下の引用でも指摘されている「それって偶像礼拝じゃないの?」という疑問でもあり、言ってみれば、やはり意味や内容や役割や機能や….イコンについて知らないわからないという現実ではないでしょうか。

最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。キリスト教では(ユダヤ教イスラームも同様であるが)偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒(出エジプト記 20:4 – 6[27]申命記 5:8 – 10)である[28]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3#cite_note-osakatop2-13

 プロテスタントの実践では、聖霊の助けにより、主イエスの御名によって、父なる神に直接祈るのであって、もしも他に何かあるとすれば、書かれた神のことばとしての聖書(みことば)、行為として私たちに語り掛けるサクラメント(洗礼であったり聖餐…)が、目に見えるものとして神に心を向けることを助け導く役割をすると考えることに異論はないのではないでしょうか。(「さんび」という音楽も思い浮かんだのですが、音楽自体は直接目に見えるものではないですね。)

 それゆえに、形として認識されうる何かはできる限り除外されている文化の中にあるとやっぱり理解できないことなのだと思います。そういってしまうと身も蓋も無いことになってしまいますが。

 東方教会の中では、イコンを「イコンとは別の世界への窓口」(パーヴェル・フロレンスキイ)と表現することも耳にしていました。それでもやはりイメージできない自分がいました。
 今回、改めてイコンについて資料に触れたり、思いめぐらしたりする中で、Wikipediaの中に次のように書かれているのを見つけました。

正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである[12]。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある[13]。(同上)

 なかなか面白い比喩だと思います。
段々と自分の中で、アイコンのイメージが広がって行きました。PCを使っている人はおなじみのアイコンです。アイコン自体は本体ではありませんが、アイコンをクリックすると本体に(例えばファイルであったり、プログラムであったり)アクセスすることが出来るアレです。

 実際に自分自身がイコンを通して、神への祈りや礼拝に導かれる実践についていえば、未だに皆目見当がつきません。経験していないが故です。しかし、そのイメージはだいぶクリアーになってきました。

 私たちが神のアイコン(かたち)として造られたということも、同じ延長線上で思いめぐらしているのです。ただ、私たちは罪のゆえにアイコンとしての機能を損なっていることも事実です。生まれながらの私たち人間が本体である神につながることも、神を(自分以外の他者に)真実に指し示すことも出来ないリンク状態です。

 目に見えない神のかたちであるイエス・キリストを通して、私たちはアイコンの役割、機能を取り戻すのです。私たち自身が神につながるためのアイコンを有し、同時に私たちがこの世界に対して開かれたアイコンとして神を指し示す役割を取り戻すのです。

 神のかたちは、人間が創造された際に神の息を吹き込まれた存在であることと無関係ではないように思います。また、神がこの世界を管理する役割を人に与えられたこととも無関係ではないように思います。私たちは、神のアイコンとして生きることが本当に必要なのです。