そこでヨハネは、洗礼(バプテスマ)を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる。」
(ルカによる福音書3章7-9節)
「我々の父はアブラハムだ」意識は、形は違えども今日のクリスチャンの中にも全くない(他人事)とは言い切れなくなることがあるように思いました。
先の投稿のテーマ「神のかたち」も繋がってくるのですが、どんな生き方をすることが神さまの御心にかなうのか。バプテスマのヨハネの表現を借りれば「悔い改めにふさわしい」、「実を結ぶ」生き方なのだろう思います。
自分は選ばれてる。
自分は救われてる。
自分は神に愛されている…。
…..だから、自分の思い通り、何でも自分の好きなように生きるということではなく、神のために生きる人生を求め続け、失敗したり、挫折したりしながら、それでも主を求め、仰ぎながら生きてくことが大切なのだと思うのです。そういう意味で、バプテスマのヨハネのことばが心に響いてくるのを感じる時でした。