母の葬儀

私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。
ヨブ記1章21節

                                      

 2022年12月24日に母の葬儀を執り行いました。

 前週の木曜日頃から体調を崩した母でした。8月に右肩の脱臼が原因で入院をし、転院を経て11月28日に退院後、自宅で療養していました。

 12月20日の午後に訪れた際には静かに呼吸して眠っていましたが、20時過ぎに家族が看取る中、静かに息を引き取りました。

 12月25日は母の86歳の誕生日で、入院中から一緒にお祝いをする約束をし、その日を楽しみにしていましたが約束は果たせませんでした。
棺には誕生日にはいつも家族と共に食べていた苺のショートケーキと約束のお寿司を一緒に入れました。

 2018年12月21日には父を見取り、24日に葬儀を執り行ったのですが、同じ12月24日が母の葬儀と日となりました。それだけでなく、21日と20日と、まるで後ろをついていくかのように息を引き取った母を思い、なんだか母らしいなぁ・・・と思いました。

 遺影に使うために母の写真を探しましたが、前に出ることなくいつも一歩後ろに写っているように感じました。

 いくつか候補を選んだ中から妹と相談して、孫の姿を目を細めて見つめている写真を最終的には選びました。父の写真を入れていたフレームも交換して、夫婦おそろいのフレームにして葬儀に持って行きました。

 母の葬儀に思ったことは、人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでゆくのですが、生きた証し(内村鑑三の『後世への最大遺物』を思っていました。)、あるいは、人生の中で何かを(形があるものであれ、形のないものであれ)残したり、託したりするという事でした。(もっと積極的には、この地上に残すということ以上に、天に宝を蓄える生き方もできるのですが・・・。)

 何も残さない人はきっと一人もいないと思います。母は私たちにたくさんのやさしさと思いやりと思い出を残してくれました。

 一緒に笑ったり、一緒に泣いたり、怒ったり怒られたり、時には喧嘩したこともあったでしょう。それらすべてが大切な宝物になって心の中に残っていることを思いました。

感謝しつつ

The LORD has made known us!

ルカによる福音書2章15節には「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。」(新共同訳)と記されています。(RSV:When the angels went away from them into heaven, the shepherds said to one another, “Let us go over to Bethlehem and see this thing that has happened, which the Lord has made known to us.”)

行こう!見よう!という羊飼いの思いが心に留まりました。

いろいろなリスクやそれぞれの都合はたくさんあるでしょう。でも…それでも主が告げ知らせてくださったのだから、それを見たいと動き出す心に心が留まりました。(新改訳聖書では、「見届けて来よう」と訳しだしています。)

羊飼いたちの経験は、単に見た、聞いたということで終らずに心にしっかりと刻み込まれたことを思います。新共同訳聖書でも新改訳聖書でも、「知らせてくださった」「出来事」と訳していますが、英語の訳でも[知らせてくださった]”the Lord has made known to us.”と訳しだされていますが、原文で使われている単語には、「知るようになる」”to come to know, to make known”の意味がある単語が用いられています。

ですから、見た、聞いたことが、心の中に留まって「知るようになったこと」があって、それを実際に見たい、もっと確かに知りたいという願いに変わっていったように思わされたのです。

日常の生活の中で、いろいろなことに心を捕らわれて、どうしても鈍くなっている感覚が否めません。日常の中では残念ながら鈍くなっていることにも気が付けないことがあります。そんなときに、みことばを通して心を動かしてる羊飼いたちの姿に思いを揺さぶられる…。

今日も、行こうよ。見て来ようよ。主の働かれるその現実をと心を動かしたいと思わされました。