Wikipedia(ウィキペディア)の「イコン」を見てみると、詳しく書かれていますがプロテスタントのキリスト教会から見ると(普通は)なかなか理解しがたい内容のように思います。(個人的主観です。スミマセン)
大きなところでは、以下の引用でも指摘されている「それって偶像礼拝じゃないの?」という疑問でもあり、言ってみれば、やはり意味や内容や役割や機能や….イコンについて知らないわからないという現実ではないでしょうか。
最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。キリスト教では(ユダヤ教やイスラームも同様であるが)偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒(出エジプト記 20:4 – 6[27]、申命記 5:8 – 10)である[28]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3#cite_note-osakatop2-13
プロテスタントの実践では、聖霊の助けにより、主イエスの御名によって、父なる神に直接祈るのであって、もしも他に何かあるとすれば、書かれた神のことばとしての聖書(みことば)、行為として私たちに語り掛けるサクラメント(洗礼であったり聖餐…)が、目に見えるものとして神に心を向けることを助け導く役割をすると考えることに異論はないのではないでしょうか。(「さんび」という音楽も思い浮かんだのですが、音楽自体は直接目に見えるものではないですね。)
それゆえに、形として認識されうる何かはできる限り除外されている文化の中にあるとやっぱり理解できないことなのだと思います。そういってしまうと身も蓋も無いことになってしまいますが。
東方教会の中では、イコンを「イコンとは別の世界への窓口」(パーヴェル・フロレンスキイ)と表現することも耳にしていました。それでもやはりイメージできない自分がいました。
今回、改めてイコンについて資料に触れたり、思いめぐらしたりする中で、Wikipediaの中に次のように書かれているのを見つけました。
正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである[12]。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある[13]。(同上)
なかなか面白い比喩だと思います。
段々と自分の中で、アイコンのイメージが広がって行きました。PCを使っている人はおなじみのアイコンです。アイコン自体は本体ではありませんが、アイコンをクリックすると本体に(例えばファイルであったり、プログラムであったり)アクセスすることが出来るアレです。
実際に自分自身がイコンを通して、神への祈りや礼拝に導かれる実践についていえば、未だに皆目見当がつきません。経験していないが故です。しかし、そのイメージはだいぶクリアーになってきました。
私たちが神のアイコン(かたち)として造られたということも、同じ延長線上で思いめぐらしているのです。ただ、私たちは罪のゆえにアイコンとしての機能を損なっていることも事実です。生まれながらの私たち人間が本体である神につながることも、神を(自分以外の他者に)真実に指し示すことも出来ないリンク状態です。
目に見えない神のかたちであるイエス・キリストを通して、私たちはアイコンの役割、機能を取り戻すのです。私たち自身が神につながるためのアイコンを有し、同時に私たちがこの世界に対して開かれたアイコンとして神を指し示す役割を取り戻すのです。
神のかたちは、人間が創造された際に神の息を吹き込まれた存在であることと無関係ではないように思います。また、神がこの世界を管理する役割を人に与えられたこととも無関係ではないように思います。私たちは、神のアイコンとして生きることが本当に必要なのです。