暗闇の中でも、私たちの進むべき道を指し示し、足元を照らす光となるもの。

1913年3月29日の「女子英学塾」での卒業式の式辞の一部を耳にしました。

One great beacon light is Truth. It will shine in every one of our souls, if only we do not refuse to see. It points out to us our own shallow attainments, our petty meannesses, our selfishness, vanity or jealousy; and reveals to us the good in others. Thus we may escape the rocks of pride and self-love.

Follow also the guiding lights of Love and Devotion. In women, these are called instincts, but yet how narrow often is our love, how fickle and shallow, our devotion. Learn to love broadly, deeply and devotedly, and your lives can not fail. With nobler desires, greater earnestness and wider sympathy not limited to just a few, but taking in the many even beyond the home, the weakest of us may attain success.

一つの大きな道標となる光が「真理」です。私たちが見ることを拒みさえしなければ、それは私たちの魂の中で輝いています。この光は、私たちの浅はかな達成感、些細な卑しさ、利己主義、虚栄心、嫉妬などを指摘し、他人の良いところを明らかにしてくれます。このようにして、私たちはプライドと自己愛の岩から逃れることができるのです。

また、「愛」と「献身」という導きの光にも従ってください。女性の場合、これらは本能と呼ばれますが、私たちの愛はどれほど狭く、献身はどれほど気まぐれで浅いものでしょうか。広く、深く、献身的に愛することを学べば、人生に失敗はないのです。より崇高な願望と、より大きな熱意と、より広い共感をもって、一部の人だけでなく、家庭を超えた多くの人を巻き込むことで、最も弱い人間でも成功を収めることができるのです。

“beacon”をここでは「道標」(みちしるべ)と訳してみましたが、「灯台」と訳されるべきなのかもしれません。私たちの人生の中で闇を照らす光としての役割を果たしてくれる『真理』。

12月の聖餐式

12月の聖餐式の準備をしました。

アリスター・E・マクグラスという英国の神学者は、その著書『十字架の謎』という本の中で以下のように述べています。

あまりにもしばしば、十字架は、キリスト教生活を始めさせるためには重要でも、それ以降は何も信仰生活に影響を及ぼさないものであるかのように扱われます。けれども、十字架は、キリスト教生活の開始点になるだけでなく、キリスト教生活の性質や目的、そして、神がその被造界や私たちの人生に臨在し働くやり方についての私たちの理解を形作るものでもあります。キリスト教徒になるということは、イエス・キリストの十字架の下で生き、その光のもとで神や世界や信仰生活を見ることです。(p249)

『十字架の謎―キリスト教の核心』 アリスター・E. マクグラス (著), 本多 峰子 (翻訳), 教文館, 2003年

マクグラス先生は、十字架は私たちがイエス・キリストを救い主と信じ、この世界で生きて行く実際的な生き方を形作り、その目的について大きな影響を及ぼすものであると告げています。そして、目に見えない神が、私たちの人生やこの世界の中で働かれる、その方法を指し示すものであもることを告げているでしょう。

聖餐のたびに十字架の下で生きることを再確認することが出来なければ、聖餐も形だけになってしまいます。私たちの今、この場所でのあり方や進み方に方向性を与え、修正してくれることを忘れてはならないと思うのです。

鹿のように

鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように神よ、
私の魂はあなたをあえぎ求める。
神に、生ける神に私の魂は渇く。 
詩編42編2-3節


 子どもたちと、夜に詩篇42篇を読みました。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(新改訳2017)

 何度となく讃美の歌詞としても味わってきた“みことば”ですが、それほどまでに切実に渇きを覚えて求めているだろうかと思わされました。

 諦めている訳でもなく、現状に満足している訳でもないけれども…渇いていない魂の現実にさえも心が向かうことなく、日常に流されているように思わされた夜でした。
 公に書き記すにはふさわしくない文書なのかもしれませんが、正直な気持ちなのです。

 自分が心底渇いているという意識もなく、それほどまでに主を求める心の不在を意識することもなく日々過ごしている自分の姿を見た気がします。

神のかたち

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

神は人を自分のかたちに創造された。 
神のかたちにこれを創造し 
男と女に創造された。
(聖書協会共同訳 創世記1章26-27節)

  神は人を「神のかたち」に造られたことをどう理解するかによって、私たちの生き方や方向性が大きく変わってくるように思う今日この頃です。

 男と女に創造されたことも、「神のかたち」との関連で考える時に、結婚ということも、夫婦の関係ということも新しい意味を持ってくるように感じ始めました。

 結婚式の折に、創世記2章18節に「また、神である主は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。』」と告げられていることについて、何度も何度も「助け手」というのは「向かい合う者」なのだと語ってきましたが、「助け手」として向かい合い生きることも、「神のかたち」として生きる側面のように思えてきました。

 言い換えると、神のかたちとして生きるためにこそ、助け合う関係があるとしたら、私たちの夫婦の関係はどこを目指すべきなのかをもう一度立ち止まって考えてみる必要があるのだろう….と。

 そんなことを思いめぐらしていると、以前、前田誠氏の「不在の神は“風”の中に」の中にあった文書を思い出しました。

 男はヘブル語で「イーシュ」。女はヘブル語で「イッシャー」です。
それぞれאִישׁとאִשָּׁהと書きます。それぞれがアレフとシンという同じ文字を持っている一方、男だけがヨッド(ローマ翻字で表現すると、「Y」)を、女だけがへー(同様に「H」)を持っています。

 この男のYと女のHが夫婦として一つになるときに、お互いが持っているYとHが一つになる。ばらばらにいる時には気が付かないYH(ヤハ)つまり「主」が現れてくるという事でした。(逆にYHが失われると、)אשしか残りません。それは「火」を意味するエーシュです。一体となった男と女がバラバラになると、そこには火しか残らないと。それは燃やし尽くしであり、神の裁きを指し示すものとなります。

 神のかたちをアイコンと考えるならば、結婚を通しても神のアイコンとなる生き方が求められているでしょうし、そのために助け合う、向かい合う存在になるプロセスを意識するようになるのではないでしょうか?

 

 

Icon

 Wikipedia(ウィキペディア)の「イコン」を見てみると、詳しく書かれていますがプロテスタントのキリスト教会から見ると(普通は)なかなか理解しがたい内容のように思います。(個人的主観です。スミマセン)


 大きなところでは、以下の引用でも指摘されている「それって偶像礼拝じゃないの?」という疑問でもあり、言ってみれば、やはり意味や内容や役割や機能や….イコンについて知らないわからないという現実ではないでしょうか。

最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。キリスト教では(ユダヤ教イスラームも同様であるが)偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒(出エジプト記 20:4 – 6[27]申命記 5:8 – 10)である[28]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3#cite_note-osakatop2-13

 プロテスタントの実践では、聖霊の助けにより、主イエスの御名によって、父なる神に直接祈るのであって、もしも他に何かあるとすれば、書かれた神のことばとしての聖書(みことば)、行為として私たちに語り掛けるサクラメント(洗礼であったり聖餐…)が、目に見えるものとして神に心を向けることを助け導く役割をすると考えることに異論はないのではないでしょうか。(「さんび」という音楽も思い浮かんだのですが、音楽自体は直接目に見えるものではないですね。)

 それゆえに、形として認識されうる何かはできる限り除外されている文化の中にあるとやっぱり理解できないことなのだと思います。そういってしまうと身も蓋も無いことになってしまいますが。

 東方教会の中では、イコンを「イコンとは別の世界への窓口」(パーヴェル・フロレンスキイ)と表現することも耳にしていました。それでもやはりイメージできない自分がいました。
 今回、改めてイコンについて資料に触れたり、思いめぐらしたりする中で、Wikipediaの中に次のように書かれているのを見つけました。

正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである[12]。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた原像である。このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがある[13]。(同上)

 なかなか面白い比喩だと思います。
段々と自分の中で、アイコンのイメージが広がって行きました。PCを使っている人はおなじみのアイコンです。アイコン自体は本体ではありませんが、アイコンをクリックすると本体に(例えばファイルであったり、プログラムであったり)アクセスすることが出来るアレです。

 実際に自分自身がイコンを通して、神への祈りや礼拝に導かれる実践についていえば、未だに皆目見当がつきません。経験していないが故です。しかし、そのイメージはだいぶクリアーになってきました。

 私たちが神のアイコン(かたち)として造られたということも、同じ延長線上で思いめぐらしているのです。ただ、私たちは罪のゆえにアイコンとしての機能を損なっていることも事実です。生まれながらの私たち人間が本体である神につながることも、神を(自分以外の他者に)真実に指し示すことも出来ないリンク状態です。

 目に見えない神のかたちであるイエス・キリストを通して、私たちはアイコンの役割、機能を取り戻すのです。私たち自身が神につながるためのアイコンを有し、同時に私たちがこの世界に対して開かれたアイコンとして神を指し示す役割を取り戻すのです。

 神のかたちは、人間が創造された際に神の息を吹き込まれた存在であることと無関係ではないように思います。また、神がこの世界を管理する役割を人に与えられたこととも無関係ではないように思います。私たちは、神のアイコンとして生きることが本当に必要なのです。

11月の聖餐式

 本日、11月の聖餐式を執り行います。
今日のぶどう液は、ストレートジュースで、カップに注ぐ際にも粘度を感じさせるものでした。(聖餐式用にとお土産に頂いたものです。)

 先週の日曜日に、ある方との会話の中で、もう2年近く聖餐式に預かっていないという話がありました。コロナの影響で、インターネット配信による礼拝の出席であったり、実際に集う機会があっても感染防止対策のため現在は中止という事でした。

 礼拝ということもそうですが、礼拝とは何なのか、教会とは何なのか、その本質的な部分が問い直されている期間のように思います。

 立ち止まって、座って、ゆっくりと思いめぐらしたり、考えてみたり、そして、互いに分かち合ってみるという機会なのでしょう。

神の像と肖(ギリシャ正教からの視点)

髙橋保行著「ギリシャ正教」(講談社学術文庫 講談社 1980年)の中に、次のように書かれているのを読みました。

神の力と働きに人があずかり、神と交わりを持つとき、はじめて人間とよばれうるものとなるというギリシャ正教の人間観は、ただたんに創られたまま、あるがままの形で存続するだけでは人間とは考えないことを意味する。これは、すでにみたように、人間の生死の問題を、肉体や霊魂の生死という現象面からでなく、人間と神の関係から解こうとするからである。ギリシャ正教の世界で、人の生死の判断を究極的な意味においてくだすときには、過去においても、現実においても、人が神の力と働きにあずかっているかいないかが基準とされるのである。
 ここで問題となる人間の創られたままの形と、人間が神との交わりの中に生きつつあるものとなるという過程の関係を、表信者聖マキシマスは、創世記の中の像と肖という言葉にみいだしている。われわれの像と肖に似せて人を創ろうという神の言葉から、聖マキシマスは、人間の創られたままの形を像、創られた人間が神の力と働きにあずかり、神との交わりの中に生きる過程を肖と解釈するのである。この解釈は、人が人とよばれるには、神の力と働きの中に生きつつあるというプロセスをもっていなければならないことを意味する。霊と体が存続するだけではなく、神に向かって生きつづけるという上昇のムーヴメントがなければ人間とはよばれないのである。
 この世に生まれてくる者はすべて神の像をもっているが、肖はこの世に生きるときに、人が神との交わりにより、自分の意志と力で自分の中に築きあげてゆくものである。生まれながらに与えられている像と肖のうち、像は人間がどんな人生を送ろうが消えないが、肖は人が意志と力により自分の中にとりいれなければならない。像と肖は、共に神の恩恵により与えられるが、肖のほうは人生の途上で、人がみずからの中に神との交わりにより形成するものである。
 人が自分の意志と力で神の肖をとりつつ生きるとき、はじめて神の像と肖をもつ総合的な人間が生まれる。

髙橋保行著「ギリシャ正教」(講談社学術文庫 講談社 1980年 p.258)

先の投稿との関連ですが….生まれながらに「アブラハムの子孫」という意識だけでなく、アブラハムの祝福を継承するものとして生きる、「神との生きた関連性」がなければ、確かにアブラハムの子孫である事実は事実だけれども、その実が残らないのだろうと思います。

何を見ているのか、何を感じているのか、何を伝えたいと思っているのか….

心に思い浮かぶ思いを全て書き記すことも、表現することも出来ないように思いますが、それでも分かち合うために書き残す努力を忘れないでいたいと願っています。

バプテスマのヨハネ

 そこでヨハネは、洗礼(バプテスマ)を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる。」
(ルカによる福音書3章7-9節)

 「我々の父はアブラハムだ」意識は、形は違えども今日のクリスチャンの中にも全くない(他人事)とは言い切れなくなることがあるように思いました。

 先の投稿のテーマ「神のかたち」も繋がってくるのですが、どんな生き方をすることが神さまの御心にかなうのか。バプテスマのヨハネの表現を借りれば「悔い改めにふさわしい」、「実を結ぶ」生き方なのだろう思います。

 自分は選ばれてる。

 自分は救われてる。

 自分は神に愛されている…。

 …..だから、自分の思い通り、何でも自分の好きなように生きるということではなく、神のために生きる人生を求め続け、失敗したり、挫折したりしながら、それでも主を求め、仰ぎながら生きてくことが大切なのだと思うのです。そういう意味で、バプテスマのヨハネのことばが心に響いてくるのを感じる時でした。

神のかたち ツェレム、エイコーン、イコン、アイコン。

 以前、ある法人のお手伝いをすることになったと書きましたが、毎月スタッフ向けの研修の時間を頂戴して、法人の活動の中で掲げる「キリスト教の精神に基づく保育」の中身を一緒に考える機会を持っています。

  「キリスト教の精神に基づく保育」 という表現をもう少し補足すれば「聖書が教える人間理解や人生の目的、また世界観を土台にして営まれる保育」と言えると考えています。

 実際に子どもたちと直接接するスタッフと一緒に考えてみたいと思っていることは「神のかたち」という事なのですが、日本語の聖書では、「神のかたち」と、あえて「ひらがな」で書かれています。
 それは「形」ではないという意味が含まれている訳で、新改訳聖書の欄外ではあえて「像」という漢字が示されています。

 英訳の聖書では「image」と訳されていて「form」のように「形」ではなく「像」という意味が訳語の選択によって示されている訳です。
 しかし…日本語で表現されている、この「像」という表現も、個人的には何となくピーンとこないような気がします。(どうしても日本語で「像」と言われると、肖像とか銅像とかの像を思い浮かべてしまうのは自分だけでしょうか?)

 もちろん「神のかたち」が何を指し、何を意味しているのかは簡単なことではありません。キリスト教の歴史の中でも様々な説明や理解がなされてきたことを踏まえつつ、自分の立ち位置を定めて行くわけですが、今回考えていることは、ヘブル語の「ツェレム」という言葉をギリシャ語の聖書では「エイコーン」という訳語を当てたことを説明し、大まかに様々な立場を概観しながら、その上で現在の生活の中で普通に使っているアイコン(icon)や特に東方教会のイコンに触れつつ考えてみようかと思っているところです。

 私たちの生活の中で、「像」という言葉で表現するよりも「アイコン」や「イコン」という言葉の方が理解しやすい内容もあるように思ったのですが…どうでしょうか。

 アイコンはともかくイコンに関しては、ごくごく普通のプロテスタントの信仰を持っているクリスチャンにとっては馴染みがない、あるいは理解しがたい内容なのかもしれませんが、「かたち」の意味を理解する足がかりとして引用してみようと思っています。

 同じ西方教会の流れになるカトリック教会の歴史からも、東方教会の信仰理解からも学べるたくさんのことがあることを大切にしたいと思うのは、自分の一つのスタンスでもあるのですが…。

 追記:ラテン語表現では、イマゴ・ディ(imago Dei)ですから、英語のイメージ(image)につながってきます。ギリシャ語ではエイコーン(εἰκών)と書いていますが、現代のギリシャ語では、これをイコーンと発音するらしいです。

小さな集いで使える聖餐式のカップ

 6月の聖餐式の投稿で、少人数の集まりのための聖餐式のカップやトレイのことを書きましたが、毎月の聖餐式の投稿で画像を付けているように、少し小さめのガラス製のカップを使ってきました。

 数か月前に、もっと小さなグラスを見つることが出来ました。サイズ(高さ)自体は通常教会の聖餐式で使われるグラスよりは大きいのですが、注ぐことが出来る容量は15mlと量的にはピッタリです。

 12個のグラスと台がセットになっているものですが、以前も書いたように今は数的に十分すぎる個数ですが、将来的に人数が増えたらもうワンセット追加することで24人まで対応できますし、2セットの追加なら36人まで対応できます。

 分餐の際にもセットの方が(一つで24個とか36個よりも)扱いやすいし、時間が短くなります。

 もっとも今は12個でも多いので、6個だけ使って残りはケースにしまっています。
決して大きくな集まりの為に、こういう小さな聖餐式セットがあってもよいと思うのですが….。

 ちなみにこれまで使っていたグラスもショットグラスで、もともとはお酒をストレートで飲むために使われる少量を注ぐためのグラスです。

 思い返してみれば、こうした一つ一つのカップを分餐する方法ではなく、一つのカップを使って一つのカップから会衆が飲む方法の聖餐式も経験したことがあることを思い出しました。

 ある教会では一つのカップでしたが、スプーンで葡萄酒をいただきました。またある教会では一つのカップから回し飲み(というと表現が悪いですね。)、司祭が器を口元に差し出して下さり、そこから飲んだ際に、司祭が口を付けた部分を拭って、ふき取ってくださっていました。

 そういう方法ならば、小さな集いでも一つのカップで分餐出来るわけでカップの大きさを気にすることはあまりないということになるのでしょう。

 集まりが大きくなれば普通にキリスト教書店で売られている聖餐式セットを選択すればよいだけの話なのでしょが、開拓当初の教会などで、小さな小さな集いで使える聖餐式セットがどうしてないんだろうかと思わなくもないのですが。