今年もよろしくお願い致します。

 今年は新しい礼拝の場所を定めたいと願っています。
4月からの礼拝は新しい環境で捧げたいと準備を進めています。駐車場の問題があったりと完璧な環境ではないかもしれませんが、一歩前進という感じです。

 2024年度は横須賀市内の単立教会と合同の礼拝を四半期に一度行ってきました。この1月19日が4回目になるのですが、「ひかりのこ」として歩むということを中心テーマにみことばを開きたいと思っています。

 私たちが「神のかたち」として造られた存在であることを共通のテーマとして語ってきましたが、そのまとめでもあり、エールでもある…そんな説教をイメージしています。

父なる神のみこころ

5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです
。(1テサロニケ5:16-18 新改訳聖書2017)

今朝は新約聖書のテサロニケ人への手紙第一より5章16-18節をお読みいただきました。

パウロは、今朝の箇所の少し前でテサロニケのクリスチャン達に向けて「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」(5:5)と書き送っています。

光の子ども、昼の子どもの生き方を特徴づけていることの一つが「喜び」であり「祈り」であり「感謝」でしょう。

パウロは「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と告げています。新改訳聖書では「神があなたがたに望んでおられること」と訳されています。口語訳では「神があなたがたに求めておられること」と訳しています。 

NIVでは” God’s will for you”(あなたがたに対する神の御心)と表現しています。ギリシャ語原文では「セレーマ」という単語が使われていますが、このセレーマには、will(みこころ), wish,(願い・望み・希望) desire(願望・願い・望み)の意味があります。

今朝の御言葉は、一度ならずとも読んだこともあるでしょうし、この箇所からのメッセージを聞いたことがあるかもしれません。

いつも喜んでいること、絶えず祈ること、すべての事について感謝することを、神が私たちに願われている。望んでおられる。求めておられるということを私たちはどのように考え、また、受け入れているでしょうか?

 時折喜ぶという生き方ではない。いつも喜ぶという生き方を私たちは出来るだろうか…。

 時々、あるいは決まった時間に祈るというのではない。絶えず祈るという生き方を私たちは出来るだろうか…。

 自分にとって納得できること、受け入れられることに対しては感謝の意を表わすことができるというのではない。すべての事について感謝するという生き方を私たちは出来るだろうか…。

 パウロは無理難題を突き付けて、到底出来っこないことを求めているのでしょうか?できないことに気がつかせて、神の御心に生きることができない私たちの罪の性質を示そうとしているのでしょうか?

 それとも、そういう生き方を目指しなさいと、目標を掲げて、それを目指して進みなさいと言う意図で語っているのでしょうか?

 今は無理だけど、やがてそうなる、そうできる、そう生きる姿を示して希望を与えようとしているのでしょうか?

 これらの問いは、大前提として「できない」、「無理無理」、「ありえない」という解答があるように思います。

 でもパウロは決してそうは思っていなかった。そう生きていた一人でしょうし、そのように生きることができるからこそ、語りつげている言葉でしょう。

 毎日の生活の中で、私たちは、たくさんの影響力を持つ人や物や情報に押しつぶされそうになりながら生きている現実があります。

 喜ぶよりも不平や不満があふれだしてきそうな出来事に囲まれ、祈るよりも行動し、祈るより自分の力でがんばる。祈っても何にもならないとささやく声に翻弄され、感謝するよりもない物を数えやすい世界に生きています。その中にあって、いつも喜んでいたい。 絶えず祈りたい。すべての事について、感謝したい。そういう生き方をしたいと、私たちの心に聖なる飢え渇きを見出すことができるならば、神の御心に生きるための最大限の助けと導きを神は約束してくださっています。

 毎日の聖書通読の中でも、読む事、知ること、理解することは、確かに重要です。読んで、読んだ先からボロボロと零れ落ちて、聖書を閉じたときには、何が書いてあったか全く覚えていない、心に残っていないというのでは読んだことにならないでしょう。そこにある神の御業が、神の約束が自分のものであると、自分に関係のあるものだと知って欲しい。そして、それを自分のものとして体験するすべを体得して欲しいと強く願う今日この頃なのです。

 自分の現実の生活を考えてみても、ストレスを強く感じ、時に怒り、時に憤り、時に悲しみ、喜び以外の感情で心がいっぱいになっている自分を見つけることがあります。もちろん、その現実は、パウロが語り告げる神の御心、神の願いとは違う生き方をしている自分がいることを認めざるを得ない。しかし、それでも御言葉はやっぱり力があって、私たちの人生を、生き方そのものを変える力があることをご一緒に経験したいのです。

 まずもう一度、心をしっかりと向けなければならないことは、私たちが夜や暗闇の中から救い出され、光の子ども、昼の子どもとされたのは、イエス・キリストが私たちのために死んでくださったからだという原点です。キリストの十字架、キリストの贖いによって私たちは光の子どもにされたのです。パウロは5章9-10節で次のように語っています。

5:9 神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

また8節では

5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

とも語り告げています。

 イエスさまが私のために死んでくださいました。それは私を救うためです。私にいのちを与えるためです。

 新しいいのち、新しい人生を与えてくださいました。そして、私たちは主と共に生きる者とされました。

 あなたはイエスさまが自分のために死んでくださったことを信じますか?

 あなたは主と共に生きる者とされたことを受け入れますか?

 しっかりと信仰と愛を胸当てとして着けましょう。救いの望みをかぶととしてかぶりましょう。

 ついつい忘れていませんか?「イエスさまが私を救ってくださった。イエスさまが私の救い主だ。」そう信じる信仰と、「イエスさま、大好きです。愛してます。」っていう気持ち。胸にちゃんとイエスさま信じます、イエスさま愛しますの告白を身に着けるなら、あなたの心が守られるでしょう。

 救われた者の生き方、神さまがどんなに大きな希望を与えてくださっているか、天国に帰る生き方の途上にあること、この世界が全てではなくて、準備期間なんだって、もっと完璧に、もっと完全に神を知るときが来るっていう望みを頭にセットするなら、あなたの考え方、あなたの思いが守られるでしょう。

 喜べないとき、気がつくと、胸当ても、かぶとも家に忘れて出勤していたり、日曜日に教会に忘れて生活の場に遣わされて出て行ったりしてるかもしれません。忘れないようにするためにはどうしたらいいでしょう。考えてみてください。そして分かち合ってみてください。

 胸当てとかぶとが、いつも、ぴかぴかで輝いているように、ほころんだり、汚れてくすんでしまわないようにするためにはどうしたらいいでしょう。考えてみてください。そして分かち合ってみてください。

 喜ぶこと、祈りこと、感謝すること。それは互いに結び合わされて光の子どものライフスタイルとしてあらわれてきます。

 神の御心は、あなたのために死んでくださった、そして、よみがえったイエス・キリストによって成就するのです。イエスのいのちによって、イエスの愛によって、イエスの力によって。

 いつも喜ぶのはイエスさまの故です。絶えず祈るのはイエスさまの故です。すべての事に感謝するのもイエスさまの故です。

 胸当てとかぶと、忘れないでください。信仰と愛と希望。イエスさまを信じる信仰と愛、救われた者に注がれる希望の豊かさ。それらが連鎖することを経験して欲しい。喜びが喜び生み出す事。喜びが主に近づくきっかけになること。主に近づくときに心が主に近くなること。それが祈りの源泉です。祈る私たちに神に明け渡し、ゆだねる信仰が与えられること、それは感謝を生み出す事。

すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです

Lent2024

 今年は、今日2月14日からレントの期間にはいりました。イースターまでの日曜日を除く40日の期間をレントの呼びます。
 レントの期間は、イエス・キリストの十字架の苦難が私のためであったことを思い起こし、魂の断捨離…大掃除のチャンスとして過ごす期間です。教会暦の中では、大きく2回の悔い改めのシーズンがあります。ひとつはアドヴェント。もうひとつがレントです。

 私たちはこの世界で生活をする中で、たくさんの影響をまわりから受けています。意識していることもあれば、無意識に影響を受けていることもあるでしょう。人によって差はあるでしょうが、心の中にいろいろと詰め込んで、日々の忙しさの中で未整理のまま過ごしていることもあるように思います。

 アドヴェントの期間も、そしてレントの期間も意識的に自分の内面と向かい合い、私たちが今ここで生かされていることの意味、目的、進み方を再確認して、ズレている方向をアジャストし、不要なものは捨て去り、傷や汚れはきれいに掃除をして(いただき)、人生を整えることに意識的に取り組む期間(シーズン)として過ごすことが大切だと思います。

 アドヴェントが新しい年を迎える備えの期間とも重なるように、多くの場合、レントは新年度を迎える備えの時期とも重なります。特に4月から始まる新年度は、新しい学校や学年(クラス)、新しい職場、新しい生活の場など変化を迎えることが多いときになります。真剣に主の御前で自分の内面と向き合い、人生を整えることは大きな意味があるでしょう。

 御言葉を思いめぐらし、祈りをもって、聖霊なる神さまのお取り扱いに対して心を開き、傷もへこみも癒され、汚れもけがれも洗いきよめられ、心の宮に聖霊さまが満ちあふれることを求めましょう。

聖霊降臨日

聖霊さま来てください。 あなたの忠実な人々の心を満たし、 あなたの愛の炎を彼らの中に燃え上がらせてください。

聖霊さま来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。

貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれもきよく生きてはゆけません。

汚れたものをきよめ、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。
固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたは私の支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。

THY KINGDOM COME (5/18-5/28)

『Thy Kingdom come(み国が来ますように)』は、昇天日から聖霊降臨日にかけて行われる、世界的な祈りの運動に付けられたタイトルです。この運動は、2016年にイギリス国教会に向けて発せられたカンタベリー大主教とヨーク大主教の呼びかけによって始められ、世界的な運動に成長しています。

https://www.nskk.org/province/blog_pdf/2022_thy_kingdom_come_leaflet.pdf

https://www.thykingdomcome.global/ja

Blessing…

 母の元へ車を運転しながら向かう時、戻るとき…特に二つの曲が励ましとなっていました。

一つは、”The Blessing”という曲です。歌詞は…

[Verse]
The Lord bless you
And keep you
Make His face shine upon you
And be gracious to you
The Lord turn His
Face toward you
And give you peace
The Lord bless you
And keep you
Make His face shine upon you
And be gracious to you
The Lord turn His
Face toward you
And give you peace

[Chorus]
Amen, amen, amen
Amen, amen, amen

[Verse]
The Lord bless you
And keep you
Make His face shine upon you
And be gracious to you
The Lord turn His
Face toward you
And give you peace

[Chorus]
Amen, amen, amen
Amen, amen, amen
Amen, amen, amen
Amen, amen, amen

[Bridge 1]
May His favor be upon you
And a thousand generations
And your family and your children
And their children, and their children
May His favor be upon you
And a thousand generations
And your family and your children
And their children, and their children
You might also like
May His favor be upon you
And a thousand generations
And your family and your children
And their children, and their children
May His favor be upon you
And a thousand generations
And your family and your children
And their children, and their children

[Bridge 2]
May His presence go before you
And behind you, and beside you
All around you, and within you
He is with you, He is with you

[Bridge 3]
In the morning, in the evening
In your coming, and your going
In your weeping, and rejoicing
He is for you, He is for you

[Refrain]
He is for you, He is for you
He is for you, He is for you
He is for you, He is for you

 旧約聖書の民数記6章24-26節にある御言葉を祝祷の祈りの言葉として用いてきましたが、この讃美も、この聖書のみことばをベースにしています。

 もう一つは、King of my heartという曲です。

Verse 1
Let the King of my heart
Be the mountain where I run
The fountain I drink from
Oh He is my song
Let the King of my heart
Be the shadow where I hide
The ransom for my life
Oh He is my song

Chorus 1
You are good good oh
You are good good oh
You are good good oh
You are good good oh

Verse 2
Let the King of my heart
Be the wind inside my sails
The anchor in the waves
Oh He is my song
Let the King of my heart
Be the fire inside my veins
The echo of my days
Oh He is my song

(Bridge)
You’re never gonna let
Never gonna let me down
You’re never gonna let
Never gonna let me down
You’re never gonna let
Never gonna let me down
You’re never gonna let
Never gonna let me down

(Ending)
When the night is holding on to me
God is holding on
When the night is holding on to me
God is holding on

繰り返し繰り返し再生しては、音源に合わせて歌いながら通っていました。

母の葬儀

私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。
ヨブ記1章21節

                                      

 2022年12月24日に母の葬儀を執り行いました。

 前週の木曜日頃から体調を崩した母でした。8月に右肩の脱臼が原因で入院をし、転院を経て11月28日に退院後、自宅で療養していました。

 12月20日の午後に訪れた際には静かに呼吸して眠っていましたが、20時過ぎに家族が看取る中、静かに息を引き取りました。

 12月25日は母の86歳の誕生日で、入院中から一緒にお祝いをする約束をし、その日を楽しみにしていましたが約束は果たせませんでした。
棺には誕生日にはいつも家族と共に食べていた苺のショートケーキと約束のお寿司を一緒に入れました。

 2018年12月21日には父を見取り、24日に葬儀を執り行ったのですが、同じ12月24日が母の葬儀と日となりました。それだけでなく、21日と20日と、まるで後ろをついていくかのように息を引き取った母を思い、なんだか母らしいなぁ・・・と思いました。

 遺影に使うために母の写真を探しましたが、前に出ることなくいつも一歩後ろに写っているように感じました。

 いくつか候補を選んだ中から妹と相談して、孫の姿を目を細めて見つめている写真を最終的には選びました。父の写真を入れていたフレームも交換して、夫婦おそろいのフレームにして葬儀に持って行きました。

 母の葬儀に思ったことは、人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでゆくのですが、生きた証し(内村鑑三の『後世への最大遺物』を思っていました。)、あるいは、人生の中で何かを(形があるものであれ、形のないものであれ)残したり、託したりするという事でした。(もっと積極的には、この地上に残すということ以上に、天に宝を蓄える生き方もできるのですが・・・。)

 何も残さない人はきっと一人もいないと思います。母は私たちにたくさんのやさしさと思いやりと思い出を残してくれました。

 一緒に笑ったり、一緒に泣いたり、怒ったり怒られたり、時には喧嘩したこともあったでしょう。それらすべてが大切な宝物になって心の中に残っていることを思いました。

感謝しつつ